70.解説者

  大きな事件や事故が起きると、ニュースではその道の専門家が出てきて、いろいろと事件・事故の背景や今後の成り行き、対応などを詳しく説明している。人選にはそれぞれの番組の特色のようなものが出ているが、おおむね、それら専門家としての知識には敬意を表することができる。ここで疑問を呈したいのは、スポーツ番組での解説者という存在である。スポーツ解説者として登場するほとんどが、そのスポーツでの過去の実績者である。その紹介の仕方として、××オリンピック柔道○○kg級ゴールドメダリスト、世界陸上△△△mファイナリスト、元×○タイガースの監督(これはかなり限定されるか?)などといった具合である。そして、試合が始まると、その迷(?)解説ぶりにあ然とさせられる。マラソンであれば、「ここで遅れてはいけません。しっかりとついていかなければいけません」。柔道などでは、「ここは気合でいかなければいけません。気持ちで負けてはいけません」。水泳では、「追いかけろ! 離されるな!」「やったー! すごいぞ!」。まったくわからないのがアイススケートである。最初から最後まで技の名称の連呼。「トリプルアクセル」「ダブルアクセル」「サルコウ」「トリプルループ」「ルッツ」「・・・」等。多くのスポーツで、このような解説者が登場する。これはどう考えても解説ではない。何一つ解説されていない。感情と事実を表現しただけである。この程度の解説なら、よくテレビで出演者が面白い話をすると「わはははは」と笑い声を流し、珍しい話をすると「へぇー」という声を流す「あれ」と同じである。パターンが決まっているのであるから、これと同じように録音したものを流しておけばいいと思うのだが・・・。

 確かに彼らは、その当時それなりの実績を上げたかもしれない。しかし、それはその当時のレベルの競技であり、実技の演者としてである。それと解説とは全く別物である。その後、彼らが解説者としての訓練や努力を行い、誰が聞いても納得の得られるような解説ができているのならいい。ほとんどがかつての競技者としての実績だけで、解説者としてのその内容はおそまつそのものである。ただ、マラソンの解説を行っている元女性ランナーは、さすがだと思える解説を行っているのを聞いたことがある。情報収集や個人的な視点をしっかりと持ってやっているのが伝わってくる。聞いていても非常に参考になる。解説者としての自覚を感じる。彼女のように立場が変われば、変わった分野での専門家を目指してもらいたいものである。いつまでも過去の栄光にすがって恥をさらすのはどうかと思う。

 サラリーマンをリタイヤした人が最も嫌われるパターンとして、初対面でのあいさつに現役時代の肩書をいう場合である、というのをよく聞く。例えば、「○○銀行で頭取をしていました」「××電機株式会社で部長をしていました」などがそれである。聞いたほうは、「それがどうした?」「だから何なんだ?」「今のあんたは何ができるのか?」である。人の能力などというものは、ちょっと話をすればすぐにわかるものである。カッコウを付けてもすぐに化けの皮が剥がれるのである。

  何年も、何十年も前の肩書で紹介されるような解説者がいる世界では、いつまでたってもそのスポーツの体質が変わらないのは当たり前のような気がする。それでも番組に出演させるということであれば、「解説者」とせず「応援団長」とすれば納得のしようもあるというものである。評論家という名称も気になるところである。しかし、過去の肩書とともに紹介される解説者よりはましかもしれない。少しはその道の勉強をして、人前で話ができるレベルを感じることができるからである。そうは言ってもしょせん正論・原則論であって、現実味のある解決策に乏しい場合が多い。タイガースが負けた翌日の朝にどっと増えるのが野球評論家である。通勤電車内の大半が野球評論家といってもいいくらいである。結果が出た後なので、いくらでも、何でも言える。こんな人こそ会社での肩書を聞いてみたいものである。