19.フグ
フグの思い出を「初級」「中級」「上級」と3段階に分けて書いてみる。「なーんだ」「へえー」「ちょっと・・・」といったところか? フグの季節は秋分から春分までの寒い時期、というのが一般的である。特に今頃は身がしまり最高に旨いころである。
フグとの出会いは九州の小倉であった。入社したその日に歓迎会ということで、「ちょっと時期はずれたが、フグを食べに行こう」というのが最初であった。フグは怖いから…と言って丁重に断ったのであるが、聞き入れてもらえなかった。「フグを食って死ぬようなら、小倉の街はとっくに無人になっちょるばい」と言われた。世の中にこれだけたくさんの食べ物があるのに、わざわざフグを食べることもないのに、と思いながらしぶしぶついて行った。フグを食べることは、当時の私にとっては間違いなく危険行為であった。きれいに並べられたフグをおそるおそる食べたが、これは十分に危険行為をしてでも食べる価値のあるものだということが分かった。
フグの肝を食わずしてフグを食ったとは言えず、と言うらしい。大分県が全国で最後までフグの肝を出していた、と記憶している。それがいよいよ禁止されるというので、大分県の某所で食べることにした。身のときに比べると一段と覚悟を必要とした。聞くところによると、肝を食べると舌にピリッとくるという。この肝をポン酢に溶かし、それに薄くスライスしたフグの刺身をつけて食べると、コクがあってたいそう美味いという。が、ピリッがない。「こわい」のと「なぜ?」が一緒になり、味のほうはよく覚えていない。本物の味を知らないのでなんともいえないが、「ピリッ」がなかったとはいえ、今でもあれはフグの肝であったと思っている。決してカワハギの肝ではない、と思う。ここは当時の料理人を信じるしかない。
ここまで来ると、「上級」は予想がつくと思う。そう、フグの卵巣である。これにはさすがに決心がつきかねた。卵巣の前を何度も行ったり来たり。いろいろと質問をするが、なぜ毒が消えるのかについては明確な説明がない。さらに行ったり来たりをしながら、時間をかけて心の整理をする。そしてようやく購入する決心がついた。いくらなんでも、人が死ぬようなものをデパートで大々的に販売していないだろう、というのが結論である。ほとんど説得力のない理由で自分を納得させた。好奇心というのは恐ろしいものである。このフグの卵巣は北陸地方で加工されている。製法は、卵巣を塩漬けにし、その後数年(?)糠漬けにしたものらしい。色は黄土色に桃色を若干加えたようないかにも怖そうな色である。一瞬、決心をぐらつかせるのに十分な色である。色を見ただけで、これだけ恐ろしいという感情を持った食べ物は初めてである。持ち帰ったものの、家族にはフグの卵巣を食べるとは言い出せなかった。もし、言い出せば間違いなく捨てられてしまうだろうと思ったからである。もちろん捨てられるのはフグの卵巣である、私ではない。夜中に寝酒のつまみとして恐る恐る食べた。5mmぐらいにスライスし、3切れほど食べたが、ただ塩辛いだけである。その塩辛さも半端ではない、決してうまいものではない。食べた後で少しばかり後悔した。ひょっとしたら、このまま明日の朝が訪れないのではないか? 寝るのをもう少し延ばして様子を見ようか?・・・。やっぱりこういうときは消毒が一番である。体の内部をさらに濃いアルコールで十分に消毒をしたら朝になっていた。顔をつねってみたところ痛みがある。これほど嬉しい朝を迎えるのも珍しい。飲み過ぎた割にはすがすがしい朝である。フグについて「特級」編はない。これ以上は本当に危険である。