127.釣り
釣りにはいろいろな種類がある。場所で分ければ、海、川、池など、釣り方で分けると、浮き釣り、投げ釣り、引っ掛け釣りなどがある。えさに関しては、本物のえさを使う方式と疑似餌を使うものがある。
釣りというものは、生活の生業にしている場合を除いては、趣味の世界のものである。日がな一日のんびりと釣り糸を垂れて、自然との対話を楽しむものである。釣れればよし、釣れなくてもよし、とするべきものである。一日、自然の中で楽しく遊ぶことができたことを喜ばなければならない。しかし、最近の釣りは、何が何でも釣らなければ気がすまないという感じのものが多い。船釣りなどはその典型的なものである。魚群探知機を積み、これで魚の群れを探し、深さを測定して釣るのであるから、釣れて当たり前である。高額な料金を支払う以上は、釣れないと次回から来てもらえないので、どうしても無理やり釣れるところでとことん釣ることになる。鮎釣りなども同じようなところがある。入漁料を出した以上は徹底的に釣る。そして釣った魚はすべて持ち帰る。いつごろから日本人はこんなにもせこい釣りをしだしたのだろうか。
これらとは違って、釣りをゲームとして楽しむものもある。魚にとっては迷惑この上ないことではあるが、一応生命の保証はされている。この典型的なものにフライフィッシングがある。ブラックバス釣りと同じように、釣った魚はすべて放流するのが基本である(琵琶湖では釣ったブラックバスの放流が禁止されている)。放流するにもかかわらず、川で釣りをする場合は、入漁料を取られる。この釣りを始めて15年くらいになる。この間半分程度は休眠状態ではあるが、やめることもなく続いている。この釣りのいいのは、場所が渓流であることである。山深い場所で人と会うことも少なく、ゆっくりとことん自然と対話できるところがいい。釣り場に着くと同時に、渓流の程よく流れのある場所に缶コーヒーを冷やしておく。それからおもむろに釣り支度をして川の中へ入っていく。真夏でも渓流に腰まで入っていると、汗をほとんどかかないくらいひんやりとする。この釣りは疑似餌のついた糸を振り回して釣るので、人の多い所や木が生い茂っているような場所には適さない。両岸はともかく川の上空に木々がないことが条件である。初夏には水面からカゲロウが羽化し、時間とともに数百、数千という白い虫がパタパタと飛び回る。まるでヒッチコックの映画ような世界が訪れるときがある。全身鳥肌ものである。これだけは何度めぐり合ってもだめである。
自然の話ばかりではなく、たまには自慢話もしてみたい。15年というキャリアでは自慢にならないだろう。もっと長くやっている人もいるだろうから。しかし、この釣りを始めて以来、一度も魚を釣ったことがなかった。これが自慢である。なにしろ、魚をまったく傷つけることなく続けてきたのであるから十分自慢に値する。では、なぜ釣らないのか? ただ釣れないだけである。魚は一応、興味を示して近づいてくるのであるが、疑似餌から10cmのところを境にUターンしてしまう。この距離になぞが隠されているように思う。疑似餌をこの距離にあわせて近付けてみたが、いかんせん老眼がひどくてぼやけるだけでよく見えない。ひょっとして、この疑似餌は魚と会話ができるのかもしれない「こっちへ来るな!食べると危険!」。とりあえずこのままではいけないと思い、フライ用の釣堀へ行ったところ、ようやく待望の1匹を釣ることができた。自作の六角竹竿で釣る虹鱒は最高である。というわけで、自然界ではなかったが釣ることができ、長らく続いてきた記録はストップした。
結局、15年間渓流では魚と言葉が通じず会話は成立しなかった。しかし、自然は語らなくても、一方的に満足である。渓流では程よく冷えた缶コーヒーと会話がはずむ。これも一方的であるが・・・。この旨さが釣れないことをすっかりと忘れさせてくれ、よしまた行こう、と思わせてくれるのである。これが15年続いた理由である。いや、これからもずっと続くであろう。そのうちに無口な疑似餌を開発し、自然との対話を十分に楽しみたいものである。