117.曖昧

 日本でも外国に負けず劣らず(?)とまではいかないまでも、訴訟が増えてきたように感じる。今までなら泣き寝入り、といったことがすぐに裁判になる。したがって、断定したり、文章で記録が残ったりすることを極端に嫌がる風潮が出てきたように思う。いつの時代も責任ある発言を心がけるべきだと思う。ネット社会になり、発言した人物が特定されないという安心感から、いい加減なことや過激な発言が多くみられる。

 責任を逃れることを前提とした表現というのが気になる。「~が期待できる」「~のような気がする」が代表的なものではないだろうか? 減量や美容、健康などに関するものには「~が期待できる」、本人の希望がかなえられることに関しては「~のような気がする」が多い。例えば、「○○を3回、××を3回、これらを1セットとして1日に3回行うことで減量が期待できます」「△△を刺激することでリンパの流れを良くし小顔になることが期待できます」等である。これらをそれぞれ「減量できる」「小顔になる」と断定すると苦情が殺到すること間違いなしである。これを避けるにはこの表現しかないように思う。「期待をしてやってみたが効果がなかった。でも、結果が出た人もいるのだろうな? うらやましいな」ということに落ち着くことを期待しているのだろう。「~のような気がする」については、これを持っているといいことが起きるような気がする。いい出会いがあるような気がする。といったように、こちらも決して断定はしない。結果が出たとは言っておらず、気がするという気分を表現しているのである。この場合、必ず文末に「これはあくまでも本人の感想です」という一文が付加されている。どちらも、そこまでして表現する必要がないにもかかわらず、大げさにアピールしなければならないことに問題を感じる。テレビ番組やチラシ広告などでよく見かける。これを見てやってみよう、あるいは購入してみよう、と思った人がいるのだろうか? 全くいなければこのような表現はとっくに絶滅しているであろうから、やはりといっては何だが相当数いるのだろう。

 この文章を読んだからといって、決して小顔になったり痩せたりすることはありません。ましてや幸福になったり金銭が増えるようなことは絶対にありません。ただ、時間を無駄にしたとか、気分を害したということは稀にあるかもしれません。