61.誤差

 マラソンの中継を聞いていると、必ずといっていいくらい出てくる言葉がある。それは、42.195kmという距離の長さである。確かにこれが正式な距離なのだからしょうがない、とは思いつつ気になってしまう。コースを設定するにあたっては、ルールに従って正確に距離を測定しなければ公式記録として認定されない。しかし、実際に走った距離が42.195kmになるのか? そんなことは絶対にない。給水で少しコースを外れたり、数人で並走する場合はコース取りで距離が変わる。1位と2位の選手でも、厳密に計測すると、走った距離に数メートルの違いはでるだろう。それにもかかわらず、42.195kmと表現することに違和感を覚える。最後の桁は1メートルの単位である。身長は175.12cm、体重は70.123kgと答えるようなものである。これらの数字にどれだけの意味を感じるだろうか。1日の中でも、幅をもって変化するものに対して答える数字ではない。このような答え方をすれば人格を疑われてしまう。数字にはそれにふさわしい桁数というものがある。会話で使用する場合は「マラソン」と表現するだけでいいように思う。どうしても数字が必要ならば「42km」でいいだろう。

 最近の時計に関しては、誤差が小さすぎて愛着がわかない。腕時計はクォーツや電波時計なので、誤差はほとんど生じない。秒針を見なければ誤差はないといってもいいくらいである。日に数十秒程度の誤差である。置時計や掛け時計は電波式が主流である。夜中に電波を受け誤差を修正するので、朝起きた時には誤差がなくなっている。全くかわいげのないことこの上ない。かつての時計は1日に分単位で誤差を生じていた。遅れる傾向の時計、進む傾向の時計、それぞれの癖をしっかりと頭に入れておかないと生活に支障をきたすこともあった。遅れる時計では、朝の電車に乗り遅れかねない。あくまでも「だいたい」「おおよそ」を知るためのもので、確定するものではなかった。確定させるものは、テレビの左上に表示されるデジタルの数字であった。正確な時間が必要なときはこれに頼っていた。この表示は朝だけのものであることからすると、正確な時間が必要なのは朝だけということになる。つまり、通勤・通学に必要な時刻ということになる。

 アナログ的なものには誤差はつきものである。特に機械の動きは隙間(あえてこれを誤差とよぶことにする)だらけである。ボルトとナットで締め付ければ、しっかりと固定することができる。しかし、このボルトとナットには誤差があるから締められるのである。これがなければ、締め付けるどころか回すことすらできない。歯車も同様に誤差があるから回るのである。

 何事においても余裕や遊びという誤差が必要である。許容できる範囲での誤差は愛嬌がある。すべてのものにそれらにふさわしい誤差がある。それを理解しておかないと、人間としての誤差を疑われかねない。心にも余裕という誤差が必要である。あまりにも誤差が小さいと、無駄な衝突を起こしかねない。