56.継ぎ足し

 鰻屋、焼鳥屋といった店には、必ずといっていいほどその店独特のタレがある。そして、それらのタレは、たいてい開店以来ずっと継ぎ足しで使用されている。長いものになると数十年ということもある。震災や火災に遭っても、タレだけは持ち出したというような話も聞く。食べる側からすると、なぜそれほどまでの扱いをするのかがよくわからない。長期間継ぎ足しで使用していれば、ごみや虫が入ることもあるだろう。その場合はどうするのか? 味の継続性ということで考えても不合理である。その日の最初に使用するタレと閉店前ではかなり違ったものになるのではないだろうか。焼鳥や鰻をタレツボにどっぷりと浸けたり、かけ流したりすることで、それらの脂がその都度入いる。したがって、その日の終わりにはかなりの脂が入ることになるのではないだろうか。そして、減った分だけ新たにタレを継ぎ足せば、当然味が変わってしまう。

 フレンチ、イタリアン、中華、和食等、いろんな分野のレストランがある。それらの店でオープンキッチンにしているところでは、料理を作る過程を見ることができる。それを見ていると、これでもかというほど味見をしているのに気が付く。ソース、だし、煮物、吸い物の味等、そんなに味見をしていては塩分の取り過ぎになるのでは? と心配するくらい、しつこく味見をしている。また、うどんや蕎麦では、天候、気温によって水の量を微妙に加減して打つという。それほど微妙な調整をしないと同じものができないほど繊細なものなのだろう。味見、水加減のどちらも、店の味を守るという意味では、非常な努力をしているのを感じる。

 これらと比べるわけではないが、タレというものは、どうもおおざっぱな感じがしてならない。毎回、鰻や焼鳥につけるたびに味見をしているのを見たことがない。それだけ、わずかな味の変化では気が付かないものなのか? それとも、ほとんど味が変わっていないのか? その辺りは不明である。どちらにしてもおおざっぱなものであることは間違いない。このタレに浸けるたびに味見をしていては、間違いなく高血圧で倒れてしまうであろう。

 タレの継ぎ足しに関しては、味の継続性というものは否定したい。むしろ、味に関しては、おおざっぱな料理といった方がいいかもしれない。人間が旨いと感じる要素は、「甘味」「脂(油)」「旨味」を混ぜ合わせたもの、というのがある。もっとも代表的なものが牛丼である。これを食べて、不味いという者はいないだろう。これには上記3点がすべて含まれているからである。これと同じでタレにはその要素がある。したがって、少々味がぶれても違和感がないのだろう。タレが減れば、店独特のレシピで継ぎ足しをするので、大きくはぶれない味を保つことができる。継ぎ足しの有効性としては、タレが長期間にわたり使用されることで、寝かせたのと同じ状況を作れることではないかと思う。つまり、調味料としての角が取れて、丸みの出たまろやかさがが生まれるのではないだろうか。

 タレの継ぎ足しに関しては、味というよりは店の継続性という伝統の重みを主張しているのではないだろうか。タレは毎日使うから腐らないのである。開店以来、店を閉めずに継続してきた、という繁盛店であることの証明である。タレの継ぎ足しは、店の歴史を伝える心の支えのようなものなのであろう。しかし、食べる側からすれば、毎回きっちりとした味のものを出してもらったほうがありがたいということにならないだろうか。今回これを書いていて、ようやくはっきりとわかったことがある。鰻は高価、焼鳥は服や髪の毛に臭いが付く、と思って敬遠していたが、実はそうではなかった。タレの継ぎ足しが気に入らなかったのである。毎回味見をする料理と違って、“秘伝”といわれるタレに“どぶん”と浸けられたものが出てくることに違和感があったのである。理屈はさておき、一度でいいから、何十年も継ぎ足しをしているタレツボの底を見てみたい。