46.たたかい
「たたかい」は「戦い」、「闘い」のどちらがふさわしいか? どちらにしても物騒な単語である。しかし、この単語とずっとたたかってきた。20代の後半頃に先輩から「労働者はたたかっている時だけが人間として扱われる」というような意味のことを聞いた。「何も言わず、何も行動を起こさなければ、人間としての扱いを受けず、いいように使われる」あるいは「やるべきことをきっちりとやれば、当然のこととして権利を主張する」というような意味であると解釈してきた。したがって、「たたかい」は個人的にはずっと「闘い」であった。たたかうためには相手が必要である。そのほとんどは「自分」であるが、時には「慣習」、「体制」、「制度」であり、そしてちょっとだけ「人間」であった。勝ち目のないもの、結果が出ないもの、勝っても虚しいもの等、いろいろあるが、とりあえずたたかわなければ存在を示せなかった。
歳を取るというのは、いい意味でも悪い意味でも性格の角が取れてくる。あまり何事にも血眼になってたたかいを求めなくなってくる。家庭菜園を始めた頃は、「植物」や「動物」、「自然」にもたたかいを挑んでいた。少しでもいい野菜や果物を育てよう、雑草を徹底的に除去しよう、などというたたかいは、今ではほとんど戦意を喪失してしまっている。種を蒔けばそこそこ収穫できるだろう。雑草で野菜が見えなくなることもないだろう、といった感じである。ましてや、雨や風、台風が相手ではどうしようもない。ただただ、じっと通り過ぎるのを待つだけである。今では、「慣習」、「体制」、「制度」や「人間」などには、こちらから仕掛けることはない。時間のかかるもめごとはことのほか疲れる。
そんな戦意喪失のこの頃ではあるが、自分とのたたかいだけはやめられない。これがなくなれば、ほとんど人間としての存在価値がなくなってしまうと思っている。最もたたかいやすいのは「自分」である。そして、最も困難なのも「自分」である。理由は簡単である。たたかいの内容と勝敗の線引きを自由に決めることができるからである。人間というのはいくつになっても欲望があるものである。なかなかなくすことができない。最も身近なものは食欲である。たたかわなければどこまでも体形が崩れてしまう。社会生活を送る上では、人間としての最低限のルールを守ることも重要である。厳しく自分を律することもまたたたかいである。年相応の格好と常識を備えていたい、とは思いつつも、緊張感に欠ける場合が時としてある。
ボクシングに例えるなら、もう少し自分に対してファイティングポーズをしっかりと取るべきである。最近ちょっと気が抜け、ガードが下がっているときがある。間違いなくワンツーを食らうだろう。大変なことだが、人間として、ちょい悪オヤジとしての主張をし続けるためには、「闘い」をまだまだ続けることになるだろう。